ANMELDEN第2話 死体が消えた朝
真山詩織は、空になったベッドの前で、自分が昨夜何をしたのかを最初から思い返した。
記憶を疑わなければならないほど酒を飲んではいない。睡眠薬も使っていない。貴之が帰宅した時刻も、コーヒーを出したときの表情も、床へ崩れ落ちた際にテーブルの脚へ肩をぶつけた鈍い音も覚えている。
そして何より、彼をここまで運んだときの重さを、両腕がまだ覚えていた。
寝室の床に膝をつきかけた詩織は、ベッドの端へ手を置いて身体を支えた。シーツには人が横たわっていた跡が残っている。右側だけが深く沈み、掛け布団は足元へ寄せられていた。
昨夜、自分はこんな乱し方をしていない。
貴之を仰向けに寝かせ、胸元まで布団をかけた。朝になって夫の異変に気づいた妻を演じるつもりだったから、寝具にもできるだけ触れないようにしていた。
それなのに枕は斜めになり、掛け布団の片側が床へ垂れている。
誰かが動いた跡だった。
詩織は唇を閉じたまま、鼻からゆっくり息を吸った。寝室には昨夜と同じ柔軟剤の匂いが残っている。腐臭など当然ない。死んでから数時間しか経っていなかったのだから、それ自体は不思議ではなかった。
だが、人間そのものがいない。
窓へ近づいた。鍵はかかっていた。ベランダへ出る掃き出し窓にも異常はない。ここはマンションの七階で、外から人間が侵入して死体だけを運び出すなど考えにくかった。
玄関から運び出されたのなら。
詩織は寝室を出た。
廊下を戻りながら、昨夜の自分の動きを頭の中でなぞる。貴之を寝室へ運んだあと、リビングへ戻り、床を拭いた。コーヒーカップを洗い、食器棚へ戻した。それから着替えて、午前二時過ぎまでソファで横になっていた。
眠れたという感覚はなかった。
それでも一時間か二時間ほど、意識が途切れていた可能性はある。
もし、その間に誰かが入ったのなら。
そこまで考え、詩織は自分で否定した。
玄関の鍵は内側からかかっていた。
チェーンまではかけていなかったが、貴之以外の合鍵を持っている人間はいない。少なくとも詩織の知る限りでは。
知る限り。
その言葉が妙に引っかかった。
結婚して四年になるのに、貴之について自分がどれほど知っていたのか、急に自信がなくなった。
仕事の話を尋ねれば「君に説明しても分からない」と言われた。交友関係について聞けば「夫婦だからって全部報告する必要はないだろう」と笑われた。
詩織が誰かと食事へ行く場合には、相手の名前も帰宅予定時刻も知らせなければならなかったのに、貴之自身は平気で深夜に帰宅した。
それをおかしいと言えば、
「俺と君では置かれている立場が違うんだから、同じ条件で考えるな」
いつもそれで話は終わった。
玄関に着き、詩織は下駄箱を開けた。
昨夜、貴之が履いて帰ってきた黒い革靴が、一番下の段に揃えて置いてある。
刑事たちが来たときにも見えていた。
では、貴之がこの家を出たのなら、裸足で外へ行ったのか。
詩織は二段目へ目を移し、そこで手を止めた。
灰色のスニーカーがない。
週末に貴之が近所を走るときに履いていた靴だった。
「そんな……」
初めて声が漏れた。
昨夜、スニーカーが下駄箱にあったかどうかは覚えていない。
だから、それだけでは何も証明しない。
しかし傘立て横の小さなトレーを見ると、さらに一つ足りないものがあった。
貴之の鍵だ。
家の鍵と車の鍵、それに小さな革製のキーホルダーをまとめたものを、貴之は帰宅すると必ずそこへ置く。
昨夜も置いていた。
詩織は見たはずだった。
記憶を探ろうとすると、逆に自信が薄れていく。殺人をした夜の記憶なら、すべて鮮明に残るものだと思っていた。実際には、強烈に覚えている部分と、ほとんど抜け落ちている部分が混在している。
コーヒーを飲んだ貴之の口元。
胸を押さえた右手。
床へ倒れた身体。
壁時計の秒針。
その一方で、彼の鍵がどこにあったのかという程度のことになると、途端に輪郭がなくなる。
詩織は玄関の壁へ背を預けた。
もし貴之が、生きていたのなら。
昨夜、自分が寝室へ運んだあとで意識を取り戻し、自分の足で家を出たのなら、死体が消えたことには説明がつく。
だが、そんなことがあり得るのか。
詩織は呼吸を確認した。
胸が動いていないことを見た。
鼻先へ手を近づけても息は感じなかった。
脈も――。
そこで考えるのをやめた。
脈は、きちんと確認できていただろうか。
昨夜の自分は医師でも看護師でもない。手首へ指を当て、何も感じなかったから死んだと思った。それだけではないのか。
心臓が止まったと確信したのではなく、死んでいてほしいという自分の願望が、確認を終わらせただけではないのか。
電話が鳴った。
詩織は肩を震わせ、玄関の壁から身体を離した。
スマートフォンの画面には、知らない番号が表示されている。
一度目は出られなかった。
二度目の呼び出し音が鳴り始めてから、ようやく通話ボタンを押した。
「はい」
『真山さんでしょうか。先ほど伺った草壁です』
背中の筋肉が固くなった。
「……はい」
『朝から立て続けで申し訳ありません。ご主人の身元確認についてお願いしたいことがありまして、今日こちらへ来ていただくことはできますか』
「身元確認……ですか」
『ええ。所持品などからほぼ間違いないとは考えていますが、最終的にはご家族にも確認していただく必要があります。ただ、今すぐという話ではありません。こちらも準備がありますから』
草壁の声は、玄関先で聞いたときと変わらず穏やかだった。その穏やかさが、詩織にはかえって怖かった。
「分かりました」
『車は運転されますか』
「免許はありますけど、今日は……」
『無理をしないほうがいいでしょう。こちらで迎えを出すこともできます』
「電車で行きます」
なぜそんなことを即答したのか、自分でも分からなかった。警察の車へ乗れば逃げ場がなくなると思ったのかもしれない。
『分かりました。では、十時半ごろでどうでしょう』
「はい」
それで終わると思った。
ところが草壁は電話を切らなかった。
『真山さん、もう一つだけ確認していいですか』
「何でしょう」
『昨夜、ご主人が帰宅されたあと、あなたは一度も外へ出ていないんですよね』
喉が乾いた。
「はい」
『ご主人も?』
「出ていません」
答えた直後、詩織は自分が間違えたことに気づいた。
さっき玄関で、すでに同じことを聞かれている。
だから答え自体がおかしいわけではない。
だが今、目の前には消えた灰色のスニーカーと、なくなった鍵がある。
貴之が外へ出た可能性を、自分はもう考えている。
それでも「出ていません」と言い切った。
草壁はしばらく黙った。
『そうですか。分かりました』
「どうして、もう一度?」
聞かないほうがいいと分かっていたのに、口から出た。
『いえ。確認ですよ』
「何か見つかったんですか」
また沈黙があった。
今度は先ほどより短かった。
『ご主人が発見された場所は、ご自宅から直線距離でも四キロほどあります。歩けば相当時間がかかります。ですから、昨夜どんな移動をしたのか確認しているところです』
「車だったんですか」
『それも調べています』
答えを与えない言い方だった。
草壁は「では後ほど」と言い、通話を終えた。
画面が暗くなる。
詩織は、そのままスマートフォンを握っていた。
警察はもう移動手段を調べている。
防犯カメラ。
交通系ICカード。
タクシー。
車。
何を使ったにせよ、貴之がこの家を出たのなら、どこかに痕跡が残っているかもしれない。
そして、その痕跡が見つかれば、詩織の証言は嘘になる。
夫は外へ出ていない。
なぜそう言い切ったのかと聞かれたら、説明できない。
眠っていたから分からなかった、と最初から答えるべきだった。
だが今さら訂正すれば、もっと不自然になる。
詩織はリビングへ戻った。
壁時計は七時二十五分を指している。
スマートフォンは七時三十七分。
十二分。
いつ見ても同じ差だった。
時計の下を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
昨夜、貴之は帰宅してすぐ時計を見た。
「また時計が狂ってるじゃないか」
確かにそう言った。
詩織はあのとき、電池を替えたばかりなのに、と答えた。
すると貴之は、
「時計なんて時間が分からなければ何の価値もないだろ。使えないものを壁に掛けておく意味が分からない」
そう言った。
なのに。
なぜ自分で直さなかったのだろう。
貴之は、狂った時計をそのままにするような人間ではない。
テレビのリモコンが決められた場所から十センチずれているだけで注意する男だった。洗面台の歯ブラシの向きすら揃っていなければ気になると言っていた。
十二分も遅れた時計を目の前にして、一晩そのままにしておく。
考えてみれば、それ自体が不自然だった。
詩織は椅子を運び、時計の下へ置いた。
座面に足を乗せた瞬間、自分が何をしようとしているのか分からなくなった。
ただ電池を確認したかった。
そう自分に言い聞かせる。
時計は思ったより重かった。
壁のフックから外し、両手で抱えて床へ下ろす。
裏側には黒いプラスチックの蓋があり、その中央に電池ケースがある。特別なものには見えない。
詩織はケースを開けた。
電池は入っている。
一週間前、自分が交換した新品だ。
液漏れもない。
いったん電池を抜き、もう一度差し込もうとしたところで、指先が止まった。
電池ケースの横に、細い傷がある。
ドライバーの先を滑らせたような跡だった。
詩織は時計を裏返し、側面を見た。
小さなネジのうち、一つだけ頭がわずかに潰れている。
この時計を買って三年になる。
詩織は電池交換以外で裏側を触ったことは一度もない。
貴之が修理したとも聞いていない。
「何なの……」
時計を抱えたまま呟いた。
昨日までなら、こんな傷には気づかなかっただろう。
傷などいくらでもつく。
何かにぶつけただけかもしれない。
そう思う一方で、十二分という数字が頭から離れない。
時計が十二分遅れている。
夫がそのことを知っていた。
夫は直さなかった。
夫は昨夜、詩織に殺されたはずなのに、その後、四キロ離れた河川敷で刺されて死んだ。
そして寝室から消えた。
ばらばらだった出来事が、一本の糸でつながりそうで、つながらない。
詩織は時計を壁へ戻さず、ダイニングテーブルの上へ置いた。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
身体が反射的に硬くなる。
まだ八時にもなっていない。
草壁が戻ってきたのだろうか。
インターホンの画面を確認すると、そこには警察ではなく、一人の女性が立っていた。
三十代半ばほどに見える。黒い髪を後ろで束ね、ベージュのコートを着ている。顔色が悪く、何度も背後を気にしていた。
知らない女だった。
詩織は応答しなかった。
すると女はもう一度チャイムを押した。
『真山さん』
スピーカーから聞こえた声に、詩織は息を止めた。
『奥様ですよね。お願いです。開けてください』
「どちら様ですか」
できるだけ平静に尋ねた。
女はすぐには答えなかった。
唇を噛むような仕草をしたあと、カメラへ顔を近づけた。
『ご主人のことで来ました』
詩織の指が、インターホンの縁を強く掴んだ。
「警察の方なら、さっき――」
『警察じゃありません』
女は詩織の言葉を遮った。
その声には焦りがあった。
『私、昨日の夜、真山さんを見ています』
「……どこで?」
『ここです』
詩織は答えられなかった。
女はさらに声を落とした。
『ご主人が、この部屋から出ていくところを見ました』
心臓が一度、大きく打った。
「何時ですか」
『零時半すぎです』
昨夜、詩織が貴之の呼吸が止まったと確認したのは、午前零時十四分だった。
女は続けた。
『でも、変なんです。ご主人、一人じゃありませんでした』
詩織の呼吸が浅くなった。
「誰といたんですか」
画面の向こうで、女が周囲を確かめてから答えた。
『男の人です。あなたのご主人を支えるみたいにして、一緒にエレベーターへ乗りました』
詩織はダイニングテーブルの上に置いた壁時計を見た。
十二分遅れた針が、何事もなかったように動いている。
その秒針の音を聞きながら、詩織は初めて理解した。
昨夜、自分と貴之以外の誰かが、この家のすぐ近くにいた。
杉浦が読み上げた言葉は、詩織の頭の中で、しばらく文章にならなかった。『今夜が終われば、俺を殺した人間は三人になる』 三人。 数なら簡単だった。 一人目は自分。 二人目は玲奈。 では三人目は誰なのか。 けれど、貴之の言葉をそのまま数式のように当てはめていいのか、詩織にはもう分からなかった。あの男は言葉を事実の説明に使うより、相手を自分の望む方向へ動かすために使う人間だった。「その録音、続きはないんですか」 詩織が尋ねると、杉浦はスマートフォンを確認した。「現場で聞けたのはそこまでです。今、データをこちらへ送ってもらっています」「木島さんは話せる状態なんですよね」「搬送時は意識があったそうです。ただ、出血と睡眠不足、それに酒も入っているらしくて、病院ではまず処置を優先しています」「左腕の傷は自分で?」「それもまだ確定してません」 何を聞いても「まだ分からない」が返ってくる。 昨日までなら、その曖昧さに苛立っていたかもしれない。 今は少し違った。 分からないものを、急いで分かったことにするほうが怖い。 貴之と暮らしていた四年間、詩織は何度もそうさせられてきた。『君が気にしすぎなんだよ』『普通はそんなことで怒らない』『俺は君のためを思ってる』 説明されるうちに、自分の感じ方のほうが間違っていると思わされた。 今度は逆に、自分が都合のいい説明へ逃げ込もうとしている。 木島が三人目なら楽だ。 夫の計画の中心に木島がいて、最後に何かをしたことにできれば、自分の罪が少し薄くなるような錯覚を持てる。 だが、薄くはならない。 詩織はそれを、もう知っていた。 * 午後十時を過ぎたころ、草壁が戻ってきた。 さきほどよりも疲れた顔だったが、手には小型の端末とイヤホン、それから印刷された記録があった。「木島さんのボイスレコーダー、昨夜のデータを一部確認できました」 詩織は椅子に座り直す。
匿名の相手から送られてきた最後の文章を、草壁はしばらく見つめていた。『玲奈を呼び、木島を呼び、美和子さんも来るよう仕向けたのは、そのあとです』 そのあと。 詩織が貴之のコーヒーに毒を入れ、貴之がそれを飲んだあと。 もし本当なら、昨夜の河川敷で起きた出来事の意味が根本から変わる。 玲奈と木島と美和子が、たまたま同じ夜に貴之と会ったのではない。自分が死ぬかもしれないと悟った貴之自身が、残された時間を使って一か所へ人間を集めたことになる。「信じるんですか」 詩織が尋ねると、草壁は首を横に振った。「信じません」「ずいぶん即答ですね」「匿名の人間が送ってきた説明を、そのまま事実にしたら捜査になりません。ただ――」 草壁はスマートフォンを机へ戻した。「確かめられる部分はあります」「主人の通話やメッセージ?」「ええ。ご主人のスマートフォンは遺体のそばから見つかっています。端末自体はロックされていますが、通信記録と一部のクラウドデータは照会を進めています」 杉浦が時計を確認した。「デジタルの担当、さっき復元できそうだって言ってましたよね」「聞いてみてくれ」 杉浦が部屋を出ていく。 詩織は椅子へ深く座り直した。 疲れている。 身体はそれを訴えているのに、頭だけが眠ることを拒んでいた。「草壁さん」「何でしょう」「もし本当に、主人が全部分かっていたとしたら……私が半年前から何を考えていたのかまで」「はい」「どうして何もしなかったんでしょう」「先ほども言いましたが、それは本人にしか分かりません」「でも刑事なら、何か考えるでしょう」 草壁は少し困った顔をした。「私の推測を聞いて、それを事実みたいに扱わないと約束できますか」「努力します」「また努力ですか」「できない約束はしません」 草壁は小さく息を吐いた。「では、ただの仮説として聞いてください。ご
匿名の相手から届いた最後の文章を、詩織は何度読み返しても、別の意味にはできなかった。『昨夜のコーヒーに何を入れたのか、警察に話してください』 知られている。 少なくとも相手は、そう確信している。 推測だけならまだ逃げ道はある。夫が自宅でコーヒーを飲み、その後に薬物中毒を起こしたと知れば、妻を疑う人間はいてもおかしくない。 だが、この人物は貴之の最期を見ていた。 河川敷の写真を持っている。 木島が黒いケースを持ち去ったことも知っている。 そして、警察より先に死因が薬物へ傾いていることまで把握していた。「返信しましょう」 草壁が言った。 詩織は顔を上げた。「何と?」「証拠があるのか聞きます」「私が?」「ええ。ただし、文面は一緒に考えます」 杉浦が椅子を少し寄せた。「相手が真山さんに自白させたいなら、ただの思い込みで送っているのか、それとも具体的なものを持っているのかで違いますから」 詩織は自分のスマートフォンへ手を伸ばした。 指先が画面へ触れる。『私がコーヒーに何か入れたという証拠があるんですか』 打ち込んだあと、送信する前に草壁へ見せた。「いいでしょう」 送る。 既読はつかなかった。 一分。 二分。 会議室の時計だけが進んでいく。 壁掛け時計ではない。 普通のデジタル時計だった。 正確な時刻が表示されている。 それだけのことなのに、今の詩織には不思議な安心感があった。 十二分ずれていない。 誰かが意味を持たせていない。 ただ時間を示している。「来ませんね」 杉浦が言った。「考えてるのかもしれません」「それとも、こちらに警察がいることを分かっているか」 草壁の言葉に、詩織は眉を寄せた。「どうやって?」「分かりません。だから可能性として言っただけです」「もし警察の動きまで
木島隆臣の車が見つかったという報告から、一時間もしないうちに、詩織は再び県警本部の小さな会議室に座っていた。 三〇四号室で見つかった資料、美帆が持ち出したUSBメモリ、匿名の人物から送られてきた画像と音声。今日一日だけで増えた情報は多すぎて、どれか一つを理解しようとすると、別の事実がその意味を変えてしまう。 草壁は戻ってこない。 木島の車が見つかった久住川へ向かったらしい。 詩織の前には、若い刑事が一人残っていた。朝から何度も顔を合わせている男で、ようやく胸元の名札を見て名字が「杉浦」だと知った。「何か飲みますか」「大丈夫です」「今日、そればかりですね」「そうでした?」「少なくとも僕が聞いたのは三回目です」 杉浦は苦笑した。「水くらい飲んでください。倒れられると草壁さんに怒られるんで」「私の心配ではないんですね」「もちろん心配もしてます。ただ、警察官が『あなたが心配です』って言うと、急に嘘っぽく聞こえるでしょう」 少しだけ可笑しかった。 詩織は渡されたペットボトルを受け取った。 こんな状況でも、喉を通った水は普通に冷たい。 人の夫が死んでも、殺人事件が起きても、冷蔵庫で冷やされた水の味まで変わるわけではない。 その当たり前さが、ときどき残酷に思える。 机の上に置かれたスマートフォンは、警察の許可なしには触らないよう言われていた。 匿名の相手からは、あれ以降連絡がない。 木島隆臣。 最後に貴之が呼んだ名前。『木島に全部仕組まれた』 それが事実なのか、貴之自身の思い込みなのかは分からない。 ただ、木島が嘘をついていたことだけは、もうほぼ間違いない。 駅の北側で貴之を降ろしたあと、そのまま帰ったわけではなかった。 河川敷の映像に映った男が木島なら、彼は玲奈と美和子が去ったあと、もう一度貴之の前へ現れている。 黒いケースを持ち去った。 そして今、本人が消えている。「杉浦さん」「はい」「木島さ
草壁は詩織のスマートフォンを持ったまま、四通目の画像を拡大した。 河川敷の土の上に倒れた貴之。その胸元には血が広がっているが、右手は指を曲げたまま地面を掴んでおり、完全に力を失ってはいないように見える。画像の下端には黒い靴のつま先が入り込んでいた。「撮影時刻は分かりますか」 詩織が尋ねると、草壁は首を横に振った。「表示はありません。元データを調べれば何か残っている可能性はありますが、送信時に情報が削られているかもしれません」「この人が、主人の死ぬところを見た……」「そう書いてありますね」 草壁は事実と文章を意識して分けるような言い方をした。「信じていないんですか」「信じるかどうかを決める段階ではありません。写真を持っていることと、死の瞬間まで見ていたことは別です」 詩織は返事をしなかった。 自分は何度も、与えられた情報に意味を足してきた。もう同じ間違いはしたくない。 少し離れたところでは、美帆が若い刑事に事情を聞かれている。自分のデータを取り戻しに来ただけだったはずなのに、今では殺人事件の映像データを持ち出した重要な関係者になってしまった。 草壁が詩織のスマートフォンを若い刑事へ渡した。「この番号、すぐ照会を。通信経路も」「了解です」「返信は?」「こちらで考える。真山さんの文面を勝手に作るわけにはいかないから、送る前に確認します」 詩織は草壁を見た。「返信するんですか」「相手が会話を続ける意思を持っているなら」「私は何と?」「まずは単純に、『あなたは誰ですか』でいいでしょう」「それで答えますか」「凝った質問をすると、こちらが何を知っているか教えることになる」 草壁はそう言ってから、ほんの少しだけ口元を歪めた。「こういう相手には、警察より真山さんのほうが返事をもらいやすそうです」「どういう意味です?」「相手は私ではなく、あなたを選んで送ってきていますから」 それが、詩織には一番気味が悪かった。
三〇四号室の玄関前で、詩織はもう一度、透明な証拠袋の中の紙を見た。『十二分遅れたままでいい』『次に疑われるのは妻だ』 文章そのものより、不気味なのは時制だった。 貴之が生前に用意したものなら、妻である詩織が疑われる未来を予測していたことになる。 だが、佐伯美帆が部屋を出たあとに誰かが置いたのなら、話はまるで違う。 夫はもう死んでいる。 その死後も、十二分という仕組みを理解して動いている人間がいることになる。「真山さん、少し下へ行きましょう」 草壁に促され、詩織は階段を下りた。 狭いエントランスでは、美帆が若い刑事から事情を聞かれている。先ほどまでの強気な様子は薄れ、紙袋を膝の上へ置いたまま、落ち着かなさそうに指先で取っ手を弄っていた。 詩織が近づくと、美帆は顔を上げた。「私、盗んだってことになりますよね」 草壁が椅子を一脚引いた。「それについては、持ち出したものと経緯を確認してからです。今はご主人の死亡事件に関係する資料が優先です」「私の夫ではありませんけど」 美帆が言うと、草壁は一瞬だけ詩織へ目を向けた。「失礼。真山貴之さんの、ですね」 疲れているのかもしれない、と詩織は思った。 草壁も人間なのだ。 朝からほとんど同じ事件を追っているのだから、言い間違いくらいはする。 そう思った途端、なぜか少しだけ緊張が解けた。「佐伯さん」 草壁は美帆の紙袋を示した。「中身を全部見せてもらえますか」「嫌だと言ったら?」「任意でお願いしています。ただ、事件に関係する可能性が高いので、拒否されれば別の手続きを検討します」「そういう言い方、ずるいですよね」「警察官なので」 美帆は嫌そうに口を曲げたが、結局、紙袋を差し出した。 中から出てきたのは、印刷された写真が十一枚、透明ファイルが二冊、それから小さなUSBメモリだった。 草壁の眉が動く。「これは?」「私のです」「中身は?」