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第2話 死体が消えた朝

last update Veröffentlichungsdatum: 03.10.2026 11:49:18

第2話 死体が消えた朝

 真山詩織は、空になったベッドの前で、自分が昨夜何をしたのかを最初から思い返した。

 記憶を疑わなければならないほど酒を飲んではいない。睡眠薬も使っていない。貴之が帰宅した時刻も、コーヒーを出したときの表情も、床へ崩れ落ちた際にテーブルの脚へ肩をぶつけた鈍い音も覚えている。

 そして何より、彼をここまで運んだときの重さを、両腕がまだ覚えていた。

 寝室の床に膝をつきかけた詩織は、ベッドの端へ手を置いて身体を支えた。シーツには人が横たわっていた跡が残っている。右側だけが深く沈み、掛け布団は足元へ寄せられていた。

 昨夜、自分はこんな乱し方をしていない。

 貴之を仰向けに寝かせ、胸元まで布団をかけた。朝になって夫の異変に気づいた妻を演じるつもりだったから、寝具にもできるだけ触れないようにしていた。

 それなのに枕は斜めになり、掛け布団の片側が床へ垂れている。

 誰かが動いた跡だった。

 詩織は唇を閉じたまま、鼻からゆっくり息を吸った。寝室には昨夜と同じ柔軟剤の匂いが残っている。腐臭など当然ない。死んでから数時間しか経っていなかったのだから、それ自体は不思議ではなかった。

 だが、人間そのものがいない。

 窓へ近づいた。鍵はかかっていた。ベランダへ出る掃き出し窓にも異常はない。ここはマンションの七階で、外から人間が侵入して死体だけを運び出すなど考えにくかった。

 玄関から運び出されたのなら。

 詩織は寝室を出た。

 廊下を戻りながら、昨夜の自分の動きを頭の中でなぞる。貴之を寝室へ運んだあと、リビングへ戻り、床を拭いた。コーヒーカップを洗い、食器棚へ戻した。それから着替えて、午前二時過ぎまでソファで横になっていた。

 眠れたという感覚はなかった。

 それでも一時間か二時間ほど、意識が途切れていた可能性はある。

 もし、その間に誰かが入ったのなら。

 そこまで考え、詩織は自分で否定した。

 玄関の鍵は内側からかかっていた。

 チェーンまではかけていなかったが、貴之以外の合鍵を持っている人間はいない。少なくとも詩織の知る限りでは。

 知る限り。

 その言葉が妙に引っかかった。

 結婚して四年になるのに、貴之について自分がどれほど知っていたのか、急に自信がなくなった。

 仕事の話を尋ねれば「君に説明しても分からない」と言われた。交友関係について聞けば「夫婦だからって全部報告する必要はないだろう」と笑われた。

 詩織が誰かと食事へ行く場合には、相手の名前も帰宅予定時刻も知らせなければならなかったのに、貴之自身は平気で深夜に帰宅した。

 それをおかしいと言えば、

「俺と君では置かれている立場が違うんだから、同じ条件で考えるな」

 いつもそれで話は終わった。

 玄関に着き、詩織は下駄箱を開けた。

 昨夜、貴之が履いて帰ってきた黒い革靴が、一番下の段に揃えて置いてある。

 刑事たちが来たときにも見えていた。

 では、貴之がこの家を出たのなら、裸足で外へ行ったのか。

 詩織は二段目へ目を移し、そこで手を止めた。

 灰色のスニーカーがない。

 週末に貴之が近所を走るときに履いていた靴だった。

「そんな……」

 初めて声が漏れた。

 昨夜、スニーカーが下駄箱にあったかどうかは覚えていない。

 だから、それだけでは何も証明しない。

 しかし傘立て横の小さなトレーを見ると、さらに一つ足りないものがあった。

 貴之の鍵だ。

 家の鍵と車の鍵、それに小さな革製のキーホルダーをまとめたものを、貴之は帰宅すると必ずそこへ置く。

 昨夜も置いていた。

 詩織は見たはずだった。

 記憶を探ろうとすると、逆に自信が薄れていく。殺人をした夜の記憶なら、すべて鮮明に残るものだと思っていた。実際には、強烈に覚えている部分と、ほとんど抜け落ちている部分が混在している。

 コーヒーを飲んだ貴之の口元。

 胸を押さえた右手。

 床へ倒れた身体。

 壁時計の秒針。

 その一方で、彼の鍵がどこにあったのかという程度のことになると、途端に輪郭がなくなる。

 詩織は玄関の壁へ背を預けた。

 もし貴之が、生きていたのなら。

 昨夜、自分が寝室へ運んだあとで意識を取り戻し、自分の足で家を出たのなら、死体が消えたことには説明がつく。

 だが、そんなことがあり得るのか。

 詩織は呼吸を確認した。

 胸が動いていないことを見た。

 鼻先へ手を近づけても息は感じなかった。

 脈も――。

 そこで考えるのをやめた。

 脈は、きちんと確認できていただろうか。

 昨夜の自分は医師でも看護師でもない。手首へ指を当て、何も感じなかったから死んだと思った。それだけではないのか。

 心臓が止まったと確信したのではなく、死んでいてほしいという自分の願望が、確認を終わらせただけではないのか。

 電話が鳴った。

 詩織は肩を震わせ、玄関の壁から身体を離した。

 スマートフォンの画面には、知らない番号が表示されている。

 一度目は出られなかった。

 二度目の呼び出し音が鳴り始めてから、ようやく通話ボタンを押した。

「はい」

『真山さんでしょうか。先ほど伺った草壁です』

 背中の筋肉が固くなった。

「……はい」

『朝から立て続けで申し訳ありません。ご主人の身元確認についてお願いしたいことがありまして、今日こちらへ来ていただくことはできますか』

「身元確認……ですか」

『ええ。所持品などからほぼ間違いないとは考えていますが、最終的にはご家族にも確認していただく必要があります。ただ、今すぐという話ではありません。こちらも準備がありますから』

 草壁の声は、玄関先で聞いたときと変わらず穏やかだった。その穏やかさが、詩織にはかえって怖かった。

「分かりました」

『車は運転されますか』

「免許はありますけど、今日は……」

『無理をしないほうがいいでしょう。こちらで迎えを出すこともできます』

「電車で行きます」

 なぜそんなことを即答したのか、自分でも分からなかった。警察の車へ乗れば逃げ場がなくなると思ったのかもしれない。

『分かりました。では、十時半ごろでどうでしょう』

「はい」

 それで終わると思った。

 ところが草壁は電話を切らなかった。

『真山さん、もう一つだけ確認していいですか』

「何でしょう」

『昨夜、ご主人が帰宅されたあと、あなたは一度も外へ出ていないんですよね』

 喉が乾いた。

「はい」

『ご主人も?』

「出ていません」

 答えた直後、詩織は自分が間違えたことに気づいた。

 さっき玄関で、すでに同じことを聞かれている。

 だから答え自体がおかしいわけではない。

 だが今、目の前には消えた灰色のスニーカーと、なくなった鍵がある。

 貴之が外へ出た可能性を、自分はもう考えている。

 それでも「出ていません」と言い切った。

 草壁はしばらく黙った。

『そうですか。分かりました』

「どうして、もう一度?」

 聞かないほうがいいと分かっていたのに、口から出た。

『いえ。確認ですよ』

「何か見つかったんですか」

 また沈黙があった。

 今度は先ほどより短かった。

『ご主人が発見された場所は、ご自宅から直線距離でも四キロほどあります。歩けば相当時間がかかります。ですから、昨夜どんな移動をしたのか確認しているところです』

「車だったんですか」

『それも調べています』

 答えを与えない言い方だった。

 草壁は「では後ほど」と言い、通話を終えた。

 画面が暗くなる。

 詩織は、そのままスマートフォンを握っていた。

 警察はもう移動手段を調べている。

 防犯カメラ。

 交通系ICカード。

 タクシー。

 車。

 何を使ったにせよ、貴之がこの家を出たのなら、どこかに痕跡が残っているかもしれない。

 そして、その痕跡が見つかれば、詩織の証言は嘘になる。

 夫は外へ出ていない。

 なぜそう言い切ったのかと聞かれたら、説明できない。

 眠っていたから分からなかった、と最初から答えるべきだった。

 だが今さら訂正すれば、もっと不自然になる。

 詩織はリビングへ戻った。

 壁時計は七時二十五分を指している。

 スマートフォンは七時三十七分。

 十二分。

 いつ見ても同じ差だった。

 時計の下を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。

 昨夜、貴之は帰宅してすぐ時計を見た。

「また時計が狂ってるじゃないか」

 確かにそう言った。

 詩織はあのとき、電池を替えたばかりなのに、と答えた。

 すると貴之は、

「時計なんて時間が分からなければ何の価値もないだろ。使えないものを壁に掛けておく意味が分からない」

 そう言った。

 なのに。

 なぜ自分で直さなかったのだろう。

 貴之は、狂った時計をそのままにするような人間ではない。

 テレビのリモコンが決められた場所から十センチずれているだけで注意する男だった。洗面台の歯ブラシの向きすら揃っていなければ気になると言っていた。

 十二分も遅れた時計を目の前にして、一晩そのままにしておく。

 考えてみれば、それ自体が不自然だった。

 詩織は椅子を運び、時計の下へ置いた。

 座面に足を乗せた瞬間、自分が何をしようとしているのか分からなくなった。

 ただ電池を確認したかった。

 そう自分に言い聞かせる。

 時計は思ったより重かった。

 壁のフックから外し、両手で抱えて床へ下ろす。

 裏側には黒いプラスチックの蓋があり、その中央に電池ケースがある。特別なものには見えない。

 詩織はケースを開けた。

 電池は入っている。

 一週間前、自分が交換した新品だ。

 液漏れもない。

 いったん電池を抜き、もう一度差し込もうとしたところで、指先が止まった。

 電池ケースの横に、細い傷がある。

 ドライバーの先を滑らせたような跡だった。

 詩織は時計を裏返し、側面を見た。

 小さなネジのうち、一つだけ頭がわずかに潰れている。

 この時計を買って三年になる。

 詩織は電池交換以外で裏側を触ったことは一度もない。

 貴之が修理したとも聞いていない。

「何なの……」

 時計を抱えたまま呟いた。

 昨日までなら、こんな傷には気づかなかっただろう。

 傷などいくらでもつく。

 何かにぶつけただけかもしれない。

 そう思う一方で、十二分という数字が頭から離れない。

 時計が十二分遅れている。

 夫がそのことを知っていた。

 夫は直さなかった。

 夫は昨夜、詩織に殺されたはずなのに、その後、四キロ離れた河川敷で刺されて死んだ。

 そして寝室から消えた。

 ばらばらだった出来事が、一本の糸でつながりそうで、つながらない。

 詩織は時計を壁へ戻さず、ダイニングテーブルの上へ置いた。

 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

 身体が反射的に硬くなる。

 まだ八時にもなっていない。

 草壁が戻ってきたのだろうか。

 インターホンの画面を確認すると、そこには警察ではなく、一人の女性が立っていた。

 三十代半ばほどに見える。黒い髪を後ろで束ね、ベージュのコートを着ている。顔色が悪く、何度も背後を気にしていた。

 知らない女だった。

 詩織は応答しなかった。

 すると女はもう一度チャイムを押した。

『真山さん』

 スピーカーから聞こえた声に、詩織は息を止めた。

『奥様ですよね。お願いです。開けてください』

「どちら様ですか」

 できるだけ平静に尋ねた。

 女はすぐには答えなかった。

 唇を噛むような仕草をしたあと、カメラへ顔を近づけた。

『ご主人のことで来ました』

 詩織の指が、インターホンの縁を強く掴んだ。

「警察の方なら、さっき――」

『警察じゃありません』

 女は詩織の言葉を遮った。

 その声には焦りがあった。

『私、昨日の夜、真山さんを見ています』

「……どこで?」

『ここです』

 詩織は答えられなかった。

 女はさらに声を落とした。

『ご主人が、この部屋から出ていくところを見ました』

 心臓が一度、大きく打った。

「何時ですか」

『零時半すぎです』

 昨夜、詩織が貴之の呼吸が止まったと確認したのは、午前零時十四分だった。

 女は続けた。

『でも、変なんです。ご主人、一人じゃありませんでした』

 詩織の呼吸が浅くなった。

「誰といたんですか」

 画面の向こうで、女が周囲を確かめてから答えた。

『男の人です。あなたのご主人を支えるみたいにして、一緒にエレベーターへ乗りました』

 詩織はダイニングテーブルの上に置いた壁時計を見た。

 十二分遅れた針が、何事もなかったように動いている。

 その秒針の音を聞きながら、詩織は初めて理解した。

 昨夜、自分と貴之以外の誰かが、この家のすぐ近くにいた。

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